眞鍋せいらのポートフォリオ

あらためまして、お仕事用の自己紹介とポートフォリオです。

自己紹介

1996年生まれ。立教大学文学部文学科英米文学専修を卒業。作家ヴァージニア・ウルフの評論『三ギニー』についての卒業論文でTN賞(最優秀賞)を受賞。東京大学大学院学際情報学府修士課程に進学、その後「イギリスの反核兵器運動『グリーナム・コモン女性平和キャンプ』における『キーニング』(哀歌)の意味」で修士号を取得。

大学院在学中から教育業界に就職後の現在まで、フェミニスト文芸サークル「夏のカノープス」の一員、また個人として、短歌、評論、詩などを発表しています。

フェミニズムクィアスタディーズ、ポストコロニアリズムにとくに関心があります。

論文

差異あるものとの対話 : ヴァージニア・ウルフ『三ギニー』論

(2019年度立教大学卒業論文立教大学TN賞受賞)

イギリスの反核兵器運動『グリーナム・コモン女性平和キャンプ』における『キーニング』(哀歌)の意味

(2023年度東京大学修士論文

主な評論

より活発な批評のために一ーファンによる
『ヒプノシスマイク』試論

(2022年『夏のカノープス vol.1』)

天皇制批判、そして現代社会への希望としての『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

(2024年)

主な短歌作品

・連作「水ぎわへ」(第65回短歌研究新人賞予選通過)

・「ぽつぽつと思い出語る友といて面会室の外に遠雷」(2022年度角川全国短歌大会 佐々木幸綱選〈秀逸〉)

・連作「陸の潮騒」(第66回短歌研究新人賞佳作)

連作「渾天すらも」(2024年)

・2020年度 口語詩句奨学生 選抜

・「お茶のお客」(『月刊 ココア共和国』2020年10月号)

・「ある言語で書かれた世界さいごの詩」(『月刊 ココア共和国』2020年11月号)

エッセイ

海外留学見聞録No.4 イギリス リーズ大学

(『POSSE』41号、2019年)

 

その他、英語を使ったお仕事もお引き受けできます。

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天皇制批判、そして現代社会への希望としての『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

※この文章は、映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(古賀豪監督 2023年、東映)を、近代日本社会批判、とりわけ天皇制批判として読もうとしたものです。あくまで一視聴者による批評の試みであり、監督や公式の見解と一致しているわけではありません。また、本作のネタバレを多分に含みます。何より、できるだけ原作に即して論じようとするものではありますが、2024年1月現在本作のDVDなどは発売されていないため、細かなセリフや話の筋に関しては記憶違いがあると思われます。その点をご考慮の上お読みください。

反戦映画として、また戦後資本主義批判として

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(以下、ゲ謎)は、公開当初から、わたしのSNSのタイムラインを騒がせていた。とりわけ左派や左翼、リベラルを自認する人々から、「これは反戦映画であり、戦後日本の資本主義批判である」との評判だった。そんな中、一見政治には関心のなさそうな知人からも「面白いから見に行ったほうがいい、今度特典第二弾が配布されるから」との熱い推薦を受け、わたし自身も鑑賞するに至った。

結論として、ゲ謎がエンタメとして高い完成度であるのはもちろん、左派からの好評はもっともであると感じた。主人公の水木(言うまでもなく本作の原作者、水木しげると同じ名を持つ)は、原作者と同じく、従軍し南方で「玉砕」を命じられた経験があり、本作の舞台となった昭和31年(1956年)においても、PSTDに苦しめられている。死んだ水木の戦友たちは、冒頭で鬼太郎の父(通称・ゲゲ郎)が指摘する通り、水木に取り憑いている。作中では所々に、水木の戦場での記憶がフィルムのように挟み込まれる。

そして、ゲ謎は戦後日本の資本主義/企業社会批判でもある。水木は、軍隊でのトラウマ体験や上官からの理不尽な暴力、そして戦争を指揮した指導部が戦後も権力の座についていることなどの経験から、「戦場も故郷も関係ない。弱い者はいつも食い物にされて馬鹿を見る」と信じ、マッチョな昭和の「モーレツ社員」になる。かれは「帝国血液銀行」で頭角を表し、重役の座を狙う。本作では一瞬ではあるが、おそらく水木の職場の血液銀行であろうビル内で売血のために列をなす、きらびやかとは程遠い人々の列が描かれる。

水木は社長の密命を受け、与えられれば無類の効果を発揮するという特殊な精血剤「M」の手がかりを求め、龍賀一族の里・哭倉村へと向かう。「M」こそ、日清、日露、そして太平洋戦争で日本軍が躍進した秘訣であり、それは戦後復興を目指す今こそ必要とされているのだった。「M」の使用目的について「やはり軍隊向けですか」と問う水木に、社長は答える。「企業の戦士たちだよ、水木くん。戦争は今も続いているのだ」。

このことは、劇場版パンフレットによれば、古賀監督も意図的に描いている。監督は、舞台になった昭和30年代について、自分から提案したと答えた上で、この時代を「戦後体制から高度経済成長期に移り変わる時代です。日本は戦後の焼け野原から40年でバブルを迎え、世界一豊かな国になりましたが、それからさらに40年で子どもや女性の貧困率、自殺率は世界でもワーストレベルの国になってしまいました。なぜそうなってしまったのか。その問いかけは、水木先生が鬼太郎を生み出したことのテーマ性と通ずるものがあるのではと思ったんです」と語っている。実際、作中では龍賀家の跡取りである幼い男の子・時弥と、水木とゲゲ郎の二人の大人が語り合う場面がある。「そのうち東京に世界一高い電波塔ができる。いつか日本は世界一豊かになって、病気も貧困もなくなる」と時弥に語る水木に、ゲゲ郎は「それはおためごかし」「進歩を望まない人々もいる」と指摘しながらも、「時ちゃんたち子どもが真剣に願えば、そのような未来も来るかもしれんの」と希望を語る。

しかし、「なぜ高度経済成長期から40年経った今、日本は貧しくなってしまったのか」という監督の問題意識を映すように、哭倉村で水木が知ったM、そしてそれを生産する龍賀一族の秘密は、おぞましいものだった。水木はそれを知り、嘔吐しながら言う。「俺はこんな一族に憧れていたのか」「自分が恥ずかしい」。そう、今まで見てきたように、ゲ謎が傑出しているのは、単なる反戦映画だからではない。それが現代まで続く、戦後日本のありよう——戦前・戦中の精神を受け継いだ水木のようなマッチョな企業戦士たちに支えられ、一方で「働けない」弱者を虐げ、搾取してきた社会——を批判しているからである。

天皇制批判としての「ゲ謎」

さて、これらの強いメッセージ性に加え、ゲ謎の魅力のひとつとしてわたしが指摘したいのは、「この作品は天皇制を批判しているのではないか」という点である。もちろん、ゲ謎が戦争と戦後日本を批判しているのであれば、戦後も連綿と続く天皇制の批判をすることも、安易であり自然に思えるかもしれない。しかし実際はそうではない。左派的な思想やリベラルな意見を持つ人々が、天皇制批判には踏み込めない・あえて踏み込まないといった例は多分にある(中には、安倍晋三に代表される自民党政権と対比して、平成天皇こそリベラルであったとする向きすらある)。もちろん、古賀監督はじめスタッフの側に、このセンシティブな問題についてどのような意見があるのか、我々には知るべくもない。できるのは作品を元とした批評のみである。

ゲ謎が天皇制批判でありうるというのは、どのようなことか。取り上げるべきは、物語の最後である、「穴倉」の底のシーンである。そこで水木とゲゲ郎は、時弥の体を秘術で乗っ取った、死んだはずの龍賀一族の当主・時貞と対面する。時貞こそ、「M」を通じて日清、日露戦争の日本の勝利を導いた立役者であり、絶大な権力を有していた人物だ。時貞は、自分は日本の将来のため、「不甲斐ない若者たち」に代わってまだまだ日本を率いていくという使命を持っており、そのために時弥や他の一族を利用したのだと自慢げに語る。時貞の野望は、時貞の長女・乙米の言葉からもわかる。「この日本をあの屈辱的な敗戦から立ち直らせ、再び世界一の強国にするのがお父様の夢」「そのために死ねることを名誉に思いなさい」と乙米は言い放つ。そしてその乙米の姿は、水木によって、「玉砕」を命じながら自分だけ生き残ろうとした上官の姿と重ね合わされる。有り体に言ってしまえば、時貞は、戦後も天皇の座に留まった昭和天皇とオーバーラップするのである。

しかし、時貞が昭和天皇を思わせるのは、以上のことからだけではない。「穴蔵」のシーンで印象的なのは、時貞が愛でる「妖樹血桜」だ。桜は言うまでもなく日本の国花であり、未だに愛されると同時に、軍国主義の象徴でもあった。話が逸れるようだが、闇の中に赤く浮かび上がる血桜は、水木しげると同時代を生きた画家・富山妙子の作品を思わせる。当時の満州に生まれた富山は、戦後も一貫して日本の帝国主義を糾弾し続けた。例えば『きつね物語・桜と菊の幻影に』(1998年シリーズワーク)などは、そのおどろおどろしくも幻想的な雰囲気と相まって、ゲ謎の最終シーンを思い起こさせはしないか。(富山妙子については、公式H Pなどを参照。https://tomiyamataeko.org

血桜の最終シーンに戻ろう。その名の通り、血桜は他者の血を養分として、その色を赤く染める。そして今作、その養分とされているのは、ゲゲ郎と同じく幽霊族の生き残りである、ゲゲ郎の妻(鬼太郎の母)なのである。血桜は幽霊族の血を吸うことで美しく咲き、時貞の目を楽しませる。ここでわたしたちは、時貞が昭和天皇の隠喩であると同じく、ゲゲ郎とその妻たち幽霊族がなんのメタファーであるかについても、考察しなければならないだろう。

「幽霊族」と「人間」——近代的レイシズム(人種差別)の構図

幽霊族は、もともと人間より古くから存在していた民族であり、人間によって狩られたことでその数を減らしていったとされる。そして、物語を追うごとに、龍賀一族の権力の源である血液製剤「M」は、幽霊族の血が原料であることが明かされる。龍賀一族は幽霊族を捕らえ、その血をまた捕らえた人間に輸血することで彼らを「生ける屍」にし、Mを作り出す。まさに幽霊族や、一部の人間の「生き血を啜る」ことで富を得ていたのである。その幽霊族の最後の生き残りが、ゲゲ郎とその妻なのだ。

この時、ゲゲ郎たち幽霊族は、日本帝国主義の犠牲となった旧植民地の人々、また侵略された人々の姿と重なる。作中での「人間」が表すマジョリティの大和民族に差別されてきたマイノリティである。彼らはレイシズムの犠牲者なのだ。

ここで重要なのは、近代のレイシズムにおいて、マジョリティの目的はマイノリティを根絶やしにすることにはない、という点である。もちろん差別は殺戮に帰結する。歴史的な事例を引くなら、関東大震災時の朝鮮人を標的にした虐殺や、ナチスホロコーストがそうであるように、マイノリティはことあるごとに、人種差別暴力の犠牲になってきた。しかし、近代の帝国主義植民地主義において、より重要なのは、マイノリティを支配下におきながら、富の源泉として搾取しつづける、ということなのである。マイノリティを完全に殺してしまっては意味がないのだ。かれらを生かさず殺さず、搾り取れるだけ搾り取らねばならない——ちょうど龍賀が「M」を精製し、また血桜の養分とし続けるように。

ゲゲ郎、そしてその妻の間に幽霊族の子供(鬼太郎)が生まれることを知った時貞は、「おぞましい化け物め」と言いながら、歓喜する。二人に「子どもを作りなさい」と命じた乙米と同じく、幽霊族の血が絶えずにいることは、龍賀にとって喜ばしいことだからである。時貞は「やや子は我がものぞ」と欣喜雀躍するが、これは全ての臣民——そこには大日本帝国の植民地の人間も含まれている——が、天皇の「赤子」とされたことと重なるのだ。

ゲゲ郎は血桜の枝に手足を取られ、そこに攻撃を受けて血が滲む。画面中心に捕らえられたゲゲ郎の血が、白い桜を背景にして同心円上に広がっていく。そこに日の丸のイメージを見たわたしは、さすがに穿ちすぎだろうか。

「マジョリティ日本人」としての水木

先日、ゲ謎の感想をSNSで見ていたわたしは、こんなコメントに出会った。「水木は格好良く描かれているけれども、戦後社会に順応できていたように、やはりマジョリティの日本人男性なんだな」というようなコメントである。その点、わたしも深く同意する。前述のとおり、水木は従軍経験があり戦後企業戦士となった、ある種ステレオタイプの日本人男性だ。作品では描かれないが、水木の従軍体験が指しているのは、一兵卒とはいえかれもまた戦争の加害者でありえたし、おそらくそうであった(人を殺した経験がある)ということだ(一方、茶番とはいえ沙代を殺すふりができない弱さも彼は持っている)。そして戦後、「帝国血液銀行」で順調に出世していたことからも、水木は必ずしもマイノリティ側ではなかったと言えるだろう。

しかしだからこそ、時貞との対決シーンでの水木の役割は大きい。ゲゲ郎というマイノリティ表象に全てを負わせることなく、龍賀と、それが表す日本社会での「勝利」に憧れていた自らとの訣別として、水木は血塗れで時貞に斧を振るう。

ところで、「わしに与するなら会社を持たせてやろう」「御殿に住め」などと甘言で誘う時貞に対して、水木の「あんたつまんねえな」という返答は、やはり象徴的なものとしてSNSですでに話題になっていた。しかし個人的には、壊したら「国が滅ぶ」とされた時貞の髑髏を斧で壊した水木の、「ツケは払わねえとなあ」の言葉がより印象的だと思う。戦後も続く日本の植民地主義を、マジョリティ日本人である水木が叩き壊し、「ツケは払わねえとなあ」と笑いとばす。水木にやや肩入れして言えば、日本社会の恩恵をもっとも受けてきたマジョリティの一員として、その責任を引き受けたのだ。痛快なシーンであったように思う。

それでも次世代に希望を託す——左派的なニヒリズムの向こうにあるもの

時貞を倒した後、ゲゲ郎は、やはり「国が滅ぶ」ことを危惧して、殺されたものたちの恨みを一身に引き受けようとする。そしてそのようなゲゲ郎を、当然水木は引き止める。「やらせとけ!お前が犠牲になることはねえんだ!」というセリフは、非常に水木らしいものだ。ところが、ゲゲ郎は、生まれてくる息子のため、次世代のためにと、恨みの依代となることを選ぶ。

ゲ謎がわたしにとってもっとも魅力的なのは、この点である。個人的な印象の話になるが、とにもかくにも左派的な心情をもち、日本の将来を憂いていると、「こんな国はもう滅びるしかないんじゃないか」「その方がいっそいいのではないか」というような、ニヒリズムに陥ることがまま、ある。しかし、それは何も知らずに生まれてくる次世代に対して、あまりに無責任というものだ。「次世代のため」「子孫のため」というと、とかく右派的な運動や思想に巻き込まれてしまうケースも多いと感じているが、ゲ謎は、非常に誠実に、次の世代のために自らの世代の責任を果たせと語りかけてくる。血縁だけでいえば加害者の側であるはずの沙代や時弥といった子供たちも含めて、そして何より鬼太郎が象徴するように、本作の次世代へのまなざしは強く、あたたかい。

ゲ謎は、マジョリティの象徴であった水木が迷いながらも、墓場から生まれた鬼太郎を強く抱きしめるシーンで終わる。鬼太郎が社会にとって「災い」となるかもしれない、という、いわば社会的な大義よりも、水木は目の前の命を守ることを決断するのだ。ここにわたしは、現代日本社会への非常に先鋭的な批判と同居する、希望を見るのである。

 

より活発な批評のために——ファンによる『ヒプノシスマイク』試論

本稿は、文芸同人誌『夏のカノープス vol.1』(夏のカノープス編集部編、2022年)に掲載された「より活発な批評のために——ファンによる『ヒプノシスマイク』試論」(眞鍋せいら)を一部修正したものです。このたび、編集部の許諾を得て、執筆者本人により公開いたします。

 

(以下本文)

注意:本文中と文末脚注に引用として、女性やトランスジェンダーへの差別発言があります。また、作品のネタバレを含みます。

いつかは書かなければならないのだろうと思っていた。約一年半前から熱をあげている、『ヒプノシスマイク』についてである。ヒプノシスマイク(以下、ヒプマイ)とは、二〇一七年からCD、動画配信、ライブ、コミック、アニメ、舞台などのメディアで展開されている「様々な楽曲を声優が演じながらラップすることにより、音楽を軸に各キャラクターのストーリーが展開していく」「音楽原作キャラクターラッププロジェクト」[i]のことだ。二〇二二年四月現在での最新アルバム、「キズアトがキズナとなる」(二〇二二年三月十六日発売)は、Billboard Japanアルバム・セールス・チャート(二〇二二年三月十四日〜二〇日)によれば初動3日間で29,399枚を売り上げ、2位を獲得した(当週の売上は37,871枚にまで上った)[ii]。二〇一九年時点で「日本商品化権大賞」審査員特別賞を受賞し、経済効果は100億円を超えたという、人気のプロジェクトだ[iii]

かくいうわたしも「キズアトがキズナとなる」のCDを予約し、Apple Musicでもダウンロードしたひとりである。ヒプマイにはまったのは比較的最近だが、昨年二月の「ヒプノシスマイク—Division Rap Battle—6th LIVE 《2nd D.R.B》」も、それに続く「7th LIVE《SUMMIT OF DIVISIONS》」の配信も手に汗を握りながら見たし、今年の年始早々の3DCGライブにも行った。ちなみに一番応援しているのはシブヤ・ディビジョンなので、去年のセカンド・ディビジョン・ラップバトルでシブヤが優勝した時は本当に嬉しかった(ディビジョンとバトルに関しては後述する)。また二次創作が好きなこともあり、ほぼ毎日イラスト投稿サイトpixivでヒプマイ関連の作品を検索するといった日々が続いている。

ここまで好きなのを自覚しながら、わたしは大声で「ヒプマイが好きです」と言うのを躊躇わずにはいられない。また、好きなものは分析したり批評したりしたいという欲求をいつもなら抑えられないのだが、ヒプマイに関しては一年以上、まとまった文章にすることを避け続けてきた。なぜなら、しばしば指摘されているようなヒプマイの女性嫌悪や同性愛嫌悪、トランスジェンダー差別の表現にわたし自身少なからずダメージを受け、目を逸らそうとしてきたからだ。批判したいのに好き、でも差別的な面は見過ごせない、いっそ追うのをやめたほうがいいと思いつつ惹かれてしまう……そういった思いに引き裂かれ、なんとかこの思いを言語化したいと周囲にも話しつつ、できないでいた。今回、夏のカノープスの編集部に背中を押され、フェミニズム批評を用いながら、なんとかヒプマイについて語ろうとしはじめている。

なお、前述もしたが、本稿はシブヤ・ディビジョンのファンによるものということもあり、最後はシブヤのキャラクターに重きを置いた文章になる。そしてテクストとしてはCDのドラマトラックとコミカライズを用いたが、アニメやゲームなどカバーできなかった資料も数多い。その点を差し引いて読んでいただければと思う。

◆『ヒプノシスマイク』の「女尊男卑」設定とミソジニーホモフォビア

最初に、ヒプマイの設定をおさらいしておこう。物語の始まりは第三次世界大戦が終わり混乱した世界。なおも争いをやめない(男性の)権力者たちに対し、女性たちはクーデターを起こし、西暦を改め「H歴」の支配者となる。H歴では武力は根絶され、「争いは武力ではなく人の精神に干渉する特殊なマイク」=「ヒプノシスマイク」にとって代わる。ヒプノシスマイクは交感神経、副交感神経に作用することで、人にダメージを与えることができるというものだ。そこで、人々はラップという攻撃力の高い言葉を、ヒプノシスマイクを通じて操ることで優劣を決するようになる。

権力を握った「言の葉党」の女性たちは「中王区」という高い壁で囲まれたエリアに住んでおり、男性は中王区以外の「ディビジョン」という区画で暮らさざるをえない。各ディビジョンにはそれぞれ代表のMCグループがおり、彼らがバトルをして勝敗を決めることで、ディビジョンの領土が割り当てられる。男性は中王区に基本入ることはできず、また女性の10倍の税金を課せられている。

ちなみに、ヒプマイがプロジェクトとして発表された二〇一七年当時の公式サイトにおける説明には次のような文言があった(現在は変更)[iv]

野蛮な男性に変[ママ]わり、女性が覇権を握ることになる。中王区と呼ばれる、男性を完全排除した区画で政は行われるようになった。そこで新たな法が制定された。その名もH法案。人を殺傷するすべての武器の製造禁止、及び既存の武器の廃棄。しかし、それだけでは愚かな男性の争いは根絶されない。なので、争いは銃ではなく人の精神に干渉する特殊な【ヒプノシスマイク】にとって変わった。

このように、ヒプマイの世界は明確に、人間を「男性」と「女性」に分ける考え方、つまり性別二元論(ジェンダー・バイナリー・セオリー)に基づいている。その上で(現在削除された文言ではあるものの)男性たちは「野蛮」「愚かな」と表現され、H歴では社会システムとしても女性が優位であることが強調される。いわば女性中心主義の「女尊男卑」社会だ。そして、そのような社会のあり方に対し、ヒプマイの男性キャラクターたちは程度の差こそあれそれぞれ不満を抱いていて、ラップバトルを通じて「世界を変えよう」とする。中王区、ないし女性たちによっていわば仕組まれたバトルの場ではあるものの、それを自分たちの目的のために彼らは捉え直し、バトルに臨むのである。

と、以上がヒプマイのストーリーの基本的な枠組みだ。批判したい点はこの時点で二つある。男女二元論的なキャラクターの描き方、そして「女尊男卑」設定の意図の不明さだ。一つ目は後述するとして、ここでは「女尊男卑」という設定の不明さについて述べよう。

巣矢倫理子は、WEB記事「『ヒプノシスマイク』の『女尊男卑』設定は、ミソジニーを表現する免罪符にならない」の中で、Netflixの映画『軽い男じゃないのよ』に触れ、男女に期待されている社会的な役割を逆に(この場合は男性が性別を理由に仕事の案を却下されたり、「男性なのに」子供を持たないことに驚かれたりするように)描くことで、男性中心的で女性差別的な社会を批判的に描き出すという手法を紹介している。巣矢はその上で、ヒプマイの「女尊男卑」設定をこう批判する。[v]

一方、『ヒプノシスマイク』の社会で「女尊男卑」として挙げられている具体的な内容は、主に二つある。一つは男性が女性の10倍課税されること、もう一つは女性だけが集住して政治を行い、男性がそこから放逐されていることである。それ以外は特に説明がなく、例えば勤務医・正社員のキャラクターやその男性上司も出てくるし、職業の不自由などは描写されない。男性の医者に対して女性の看護師、というジェンダーステレオタイプな描写も登場するし、丁寧な言葉遣いをする女性の給仕係に対し、タメ口で応答する男性客、という構図も現実と変わらない。現在のジェンダーバイアスについて深く考えて反転させた内容であるとは思えない(巣矢 二〇一八)。

また、この点については、高井くららも「男性が差別されている世界だが(中略)参政権や税金が十倍であること以外にどのようにその差別が表出しているのか」と指摘する[vi]。高井は、執筆当時はヒプマイが発表された当初だったため、これから明かされる情報も多いだろうとしつつ、「不明な点や辻褄が合わない点」が数多くあるとしている(高井 二〇一八)。

正直、この点はわたしがヒプマイを知り始めた時にも抱いた感想だ。主要なキャラクターであるシンジュク・ディビジョン「麻天狼」のリーダー・神宮寺寂雷(じんぐうじ・じゃくらい)は総合病院勤務の医者で、天才医と目されている。看護師(女性として描かれることが多い)からの信頼も厚い。ちなみに彼をライバルと見なす医師も男性だ。寂雷はナゴヤ・ディビジョン「Bad Ass Temple」の天国獄(あまぐに・ひとや)と同級生だったのだが、獄も元医師志望の弁護士で、彼の事務所の受付スタッフは女性である。彼らが医師や弁護士の資格を取得したのはH歴以前の男性優位の社会でのことだったという点を考慮する必要はあるかもしれないが、H歴3年においてもジェンダーギャップ指数ランキングは低いような気がしてならない。

そして、主に初期のヒプマイには、この曖昧な「女尊男卑」という設定の中で直接的なミソジニー発言やトランスジェンダーへの差別発言が見られる[vii]。例えば、主要な登場人物であるイケブクロ・ディビジョンの山田二郎の相談相手として、安僧祇潤(あそうぎ・うるみ)というクィアに見えるキャラクター[viii]を登場させておきながら、彼の兄であり本作の主人公的な立ち位置を担う山田一郎にはトランスジェンダー女性への差別発言をさせる(このセリフはコミカライズ版では差別的でないものに変更されている[ix])。また、言の葉党によるクーデターが発表された直後には、女性へのヘイトスピーチヘイトクライムの描写もある(それをのちのシブヤ・ディビジョンの飴村乱数(あめむら・らむだ)が助けるという筋書きになっている[x])。しかし、それらの差別に対して、男性キャラクターはおろか中王区の女性キャラクターたちも、またヒプマイの公式見解としても、「差別は許されない」とは言ってくれない。巣矢が指摘するように、これらの差別は「女尊男卑の世界での出来事だから」という「免罪符」のもとに、いっそうグロテスクな面をただ露悪的に曝け出している。むしろ、男性優位であり女性差別的な風潮の強く残る「西暦」において、その女性差別に加担していると言われても仕方がないのではないだろうか。

◆中王区のフェミニズムとバイナリーな世界観への批判

巣矢はヒプマイを、「かっこいい男性キャラが、ヒップホップというカウンターカルチャーを背負って社会に反旗を翻す様子を、『女性向けコンテンツとして』描きたい」という作品であるとし、「それ自体は魅力的な試み」であると述べる。ヒップホップがシスヘテロ男性を中心に担われてきた文化であったことを考えれば[xi]、確かにヒプマイは多くの女性ファンを獲得し、ヒップホップの間口を広げたとも言えるのだろう。わたしも、元々ヒップホップとはまるで縁がなかった人間だが、ヒプマイに楽曲を提供している有名ラッパーを入り口に、少しずつ興味を持ち始めている。

女性のラッパーが活躍していることもヒプマイを通じて知った。中王区の曲「Femme Fatale」の歌詞は女性ラッパーReolによって提供され、Youtubeでは500万回を超えて再生されるなど、ヒプマイの曲の中でも人気の楽曲だ。Youtubeのコメント欄でも彼女らの「強さ」に好意的であったり、女性としてエンパワメントされた、というような書き込みが多い[xii]。わたし自身、力強く挑発的な歌詞とリズムには聴くたびに惹きつけられる。

先ほど、ヒプマイの「女尊男卑」の世界観が詳細に練られたものとは言えないと述べた。しかし一方で、H歴以前の西暦における女性差別の様相や、政権に就く以前の中王区のフェミニズム描写はかなり切実でリアルだ。その例が、中王区のトップである東方天乙統女(とうほうてん・おとめ)と、ナンバーツーである勘解由小路無花果(かでのこうじ・いちじく)の過去を描いたエピソードだ。詳細を見ていこう(なお、以下は公式ガイドブックの初回限定CDに収録された中王区Drama Track「流転は篠突く雨ですら流せない」「山雨来らんと欲して風楼に満つ」のネタバレを多分に含むので注意してほしい)[xiii]

もともと、テレビ局でアナウンサー兼記者であった無花果は、汚職や不正が蔓延る政治に疑問を持ち、権力を疑問視する取材をしていた。しかし同業の記者にさえ「女がそんな事件嗅ぎ回ってんじゃねえ」と差別発言とともに手を引くように言われ、しまいには権力側に妹を誘拐・殺害されてしまう。殺害した政治家側の人間もまた「女のくせに」という発言をしており、H歴以前の西暦では政治的腐敗だけでなくフェミサイド(女性を標的とした殺人)も頻繁だったと考えることができる。

その無花果に救いの手を差し伸べるのが東方天乙統女、という構図なのだが、財閥の一族に生まれた乙統女もまた、女性差別に苦しめられてきた。家父長的な父親と、女性差別や格差はおろか、戦争状態にある世界情勢に対しても「男性に任せておけばよい」と無関心な母親。成長した乙統女は、思わず母親に対して「管理職に就く女性の割合は、9パーセントに届きません。そして何より、この国のトップにいまだ女性が就いた事がないというのが、男性優位が根強く残っている証拠です」「ご自分が生きる国のことに、無関心でどうするんですか」と詰め寄る。ちなみに二〇二一年時点、日本における女性の管理職の割合は8.9パーセント[xiv]。乙統女の指摘する状況そのままにある西暦を生きるわれわれにとって、乙統女の訴えは胸を打つ(そして結局、彼女の訴えは「無関心でも世界は回るものですよ」と一蹴されてしまう)。

同時に乙統女は、父親による、性差別と結託した資本主義的な思考にも苦しめられる。乙統女の意向と関係なく乙統女の結婚を決めた父親は、反発する彼女に対し、「決める権利というものは、自立している者の特権だ。私の金で生きているお前に、その権利はない」と言い放ち、出て行こうとする乙統女にさらに「お前が生まれてから今日までかかった金を全て返してもらおう」「(自分で働くなどと)できもしないことを言うな」と乙統女に暴力をふるう。

しかし、乙統女の結婚相手となる飛鳥帝(あすか・みかど)は、乙統女の父親とは違い進歩的な男性であった。女性の政治参画を支持し、「いつか一緒に、この国の政ができるといいですね」と話す帝は、乙統女による女性のみの政党「言の葉党」の設立にも携わる。しかし段々と、帝は乙統女の父親と結託して不正に加担するようになり、最後には「女のくせに」と乙統女に差別発言を放ってしまう。

家父長制を体現したような乙統女の父とは違い、進歩的な考えをもつ帝すらも内面化していた女性差別。乙統女、そして無花果の直面してきた状況は「過去のもの」などではなく、まさに今・ここ、現代の日本において暴力的に、かつカジュアルに日々行われているものだ。これらのエピソードを踏まえれば、中王区的なフェミニズムのヴィジョン(女性だけが暮らすことのできるエリアがあり、政治に参画できる)や「Femme Fatale」の「最後に笑うのは乙女」という歌詞が、わたしたちにいっそう魅力的にアピールするのも無理はない。

しかし、やはり中王区のフェミニズムは批判されなければならない。繰り返しになるが、それは男女二元論であり、本質主義に基づいている。そこではXジェンダージェンダーフルイド、トランスジェンダーなどの人々の存在は透明化されている。のみならず、「男は野蛮で争うようにできている」という乙統女の言葉は差別的だ(不思議なことに、ヒプマイは女性の性役割の固定化には先述のように比較的懐疑的な見解も見せるのに、男性の役割の固定化に対しては無頓着だ。例えば、先述の神宮寺寂雷は「麻天狼」を結成する際、伊弉冉一二三(いざなみ・ひふみ)と観音坂独歩(かんのんざか・どっぽ)を「君らも男ならラップできるだろう?」と言って勧誘する[xv])。

同様に、乙統女が無花果に投げかける「(男性に虐げられた過去が)女性ならありますよね」という発言にも注意をしなければならない。それは性差別の被害者としての共通の経験を想起させ、当時の無花果にとっては確かにエンパワメントとして作用したかもしれない。しかし、それは同時に、フェミニズムが直面してきたはずの「『女性』とは誰を指すのか?」という問題を無視してしまう。清水晶子は、トランスジェンダー女性への差別とインターセクショナリティに言及しながら、こう述べる。

 あの女性と、この女性とは、必ずしも同じ女性ではない、ということ。しばしば「女性なら誰でもわかる/経験したことがある」などと言及される経験は、しかし、必ずしもあらゆる女性にとっての経験ではない、ということ。きわめて当たり前のことだが、女性がみな同じ一つの何かを共有しているわけではない、ということ。

フェミニズムは何度も何度も繰り返しこの問題に突き当たり、そこにつまづき、そしてそのことを通じてより豊かなものになってきた。フェミニズムが目指すのは、第一には、女性の権利と尊厳とが男性のそれと同等に尊重される社会の実現である、といえるだろう。しかし、そのときの〈女性〉とはどの女性なのか、誰を指すのか。そのように問われることを通じて、フェミニズムは、自らが想定してきた〈女性〉とは異なる出自や経歴、感情や技能をもつ〈女性〉がありうること、異なる身体の形状や使い方をし、異なるかたちで社会との経験を結ぶ〈女性〉がありうること、すなわち、女性の生の経験と可能性はフェミニズム自身が想定してきたものよりもはるかに多彩であることを学んできたのである(清水、2021)(傍点は清水による)[xvi]

これに倣うなら、中王区の言うフェミニズムに対して、このような問いを立てることが可能なはずだ。言の葉党に入党し、中王区に居住できるのは、シス女性(生まれた時に割り当てられた性別と自認する性別が同じである女性)だけなのか?戸籍上(戸籍というものがH歴にまだあればだが)の女性だけなのか?国籍が外国であったり、一定の所得がなかったり、障害があったり、「ヒプノシスマイク」で流暢に言葉を操ることができない女性はどうなのか?中王区のフェミニズム、ひいてはヒプマイで描かれるバイナリーな男女の世界には、現時点ではこれらの問いが設定されていない。「同じ女性/男性だからわかる」という言説は、ナイーヴであるだけでなく、「同じ」ではない他者を想定しない、排他的な言説だ。

しかし同時に、期待もある。中王区のホープであると同時に、上流階級出身の乙統女とは異なり過酷な生活環境で育った碧棺合歓(あおひつぎ・ねむ)や、言の葉党員でありながら無花果と対立し暗躍する邪答院仄仄(けいとういん・ほのぼの)は、中王区やヒプマイにおける女性たちが決して一枚岩でないことを代表するキャラクターだ。特に合歓は、そもそも兄・碧棺左馬刻(あおひつぎ・さまとき)の暴力的な言動に懐疑的であったところをヒプノシスマイクによる洗脳を受け、言の葉党に入党したという経緯があるため、洗脳が解けかけている今後、どのように中王区、ならびに家父長的な兄と対峙していくのかが注目される。

言い換えるなら、いま、ヒプマイに必要なキャラクター像の一つは、中王区のイデオロギーに収斂されない、より多面的な視野をもったフェミニストではないだろうか。例えば、中王区の「壁の外」で生活し、権力に抗する主要男性キャラクターたちと連帯していく女性キャラクターだ。

巣矢は、二〇一八年の記事で、ヒプマイの女性たちは「敵」「モブ」「敵のモブ」の三種類としてしか登場しないとしている。巣矢の記事執筆時から比べれば、その後より多くの女性キャラクターが登場したが、基本的に彼女たちは男性キャラクターから敵意を向けられるか、意に介されないかどちらかだ。そしてそのような種類の登場人物にしか、女性を主とするヒプマイのファンは自分を重ね合わせることができない。その様相を、巣矢は「悲しい立場」と呼んだ。

しかし求められているのは、新たな女性キャラクター像だけではない。彼女を敵としてしか見ないのではなく、「仲間」として認識してくれる男性キャラクターでもある。言うなれば、中王区の「壁の外」の女性の存在を認識させてくれる視線の存在だ。そしてその希望を、わたしはシブヤ・ディビジョンのリーダー、飴村乱数というキャラクターに見出しているのだが、それは次の項目で述べよう。

◆飴村乱数に希望を見る——「壁の外」の女性たちへの呼びかけ

シブヤ・ディビジョン代表(チーム名は「Fling Posse」)は、飴村乱数(あめむら・らむだ)、夢野幻太郎(ゆめの・げんたろう)、有栖川帝統(ありすがわ・だいす)の三人からなるチームだ。第一回のラップバトルでは初戦でシンジュク代表「麻天狼」に敗れたものの、昨年第二回のラップバトルでは初戦・決勝を勝ち抜き、優勝した。彼らについて書こうとすると、どうも動揺して落ち着いた記述ができないのだが、今回はできるだけ順を追ってその魅力を語ってみようと思う。

彼らの魅力の一端は、ホモソーシャルな風潮が強いヒプマイの世界において、比較的とはいえそのような性格から距離をとっている点だ。リーダーである飴村乱数は「非常に女性にモテるが特定の相手は作らない」というキャラクターである。個人的に言えば、ヒプマイを知った当初はこの設定が苦手だった。いわゆる「黄色い声」で乱数を応援する女性たちの描写はステレオタイプ的で、見ていて痛々しいように感じられたし、そもそも異性愛を批判なく描いているようにも思えた。

ところが、楽曲を聞いていくにつれて、乱数と女性の関係は必ずしも異性愛的な「モテる(=恋愛や性愛対象である)」といった関係でないのではないかと思うようになった。例えば、乱数は「Hoodstar+」という曲で、「惚れた腫れたはプレタポルテ/いやいや僕はオートクチュールです」と歌う。これはいささか飛躍して言えば、彼は「惚れた腫れた」という「既成の」異性愛的な関係以外を見据えている、ということにならないだろうか。

彼が「オートクチュール」と歌う関係は、第一にはストーリーを追うごとに深まる幻太郎と帝統との三人の関係だろう。と同時に、「シブヤ」に暮らす人々との仲間意識ではないかとも思われる。楽曲における乱数やFling Posseのパートでは、女性たちを主としたファンへの呼びかけが多い。「Survival of the Illest+」では、Fling Posseのパートには「Ladies bringin' party over here」「Ladies takin' party over there」のコールが入る[xvii]。また最新の「キズアトがキズナとなる」では、乱数は「君にも響くといいな/We areシブヤ/ヴィクトリーラン」「一緒に歩こうよ」と歌う[xviii]

そして、「キズアトがキズナとなる」と同時に発表された、各ディビジョンのリーダーによる楽曲「UNITED EMCEEZ-ENTER THE HEXAGON」での乱数のパートは一層印象的だった[xix]。ヒプマイの物語を追う上での最大の危惧は、男性キャラクターたちが「対中王区」として結束していく中で、女性キャラクターへの敵意やミソジニーエスカレートさせるのではないかという点だ。そしてこの曲こそ、今までお互いに敵対していた男性キャラクターたちの団結を象徴する曲だった。しかしその中で、乱数のパートの歌詞は「見せてよGirls gone wild/ブレーキなんてもう無い/幕開けるNew Era/一緒に作り上げてこうよYou and I」というものだった。

これこそ、中王区の「壁の外」にも女性たちがいることを意識させてくれる一節では無いだろうか。彼の歌う「Girls」は共に中王区に向かって反抗してくれると同時に、未来を「一緒に作り上げて」いく存在なのだ。正直、巣矢の言うように「敵」「モブ」「モブの敵」にしか自身を重ね合わせることができなかった一ファンの女性としては、ようやく報われた気持ちがした。彼の想定する「オートクチュール」な関係は、Fling Posseの男性キャラクター三人という、ややもすればホモソーシャルに終わる狭義の仲間だけではなく、つねにシブヤのファンや中王区に同調しない女性たちを含んでいるのである。

◆おわりに

以上、人気コンテンツ『ヒプノシスマイク』について、フェミニズムを援用しながら批評を試みてきた。実は本稿の当初の目的の一つは、ヒプマイに惹かれてやまないわたし自身と向き合うことだった。フェミニストを自認するわたしが、どうして問題も多いヒプマイというジャンルを好きなのか。この先どのようにヒプマイと付き合っていったらいいのか。その答えの片鱗を探すことだった。

正直、目的が達成できたとは思わない。批評を試みるので精一杯で、自身がなぜこのコンテンツを好きなのか、充分に言語化できた気はしない。それでも痛感したのは、さらに批評が必要だということだ。

本稿を執筆するきっかけの一つともなり、ヒプマイというコンテンツを理解しようとする上で非常に大きな影響を受けたのが、何度も引用している巣矢倫理子の文章だ。巣矢は、コンテンツを批判されると楽しんでいる気持ちに水を差された気持ちになる、といったコメントに対して、こう返す。

ヒプノシスマイク』のジェンダーについて一切問題ないと考える人や議論を避ける人を「悪」だとは言わない。作品に救われること自体は決して「間違い」ではない。ただ、「議論する」ことも「議論を無視する」ことも、それぞれ一つの政治的立場なのだという認識は必要だ。

ここでいう政治とは、狭義の政治――例えば、ニュースサイトの「政治」カテゴリで語られている話題――ではなく、広義の政治――人間集団における意思決定のための全ての営み――である(巣矢、2018)。

ヒプマイを知りはじめて魅力に取り憑かれるとともに、そのホモソーシャルな雰囲気に疑問を感じていたころ、ネット上で出会ったのがこの文章だった。コンテンツを「推す」と言うのは、無批判に楽しむことのみを指すのではない。批判をするという向き合い方もあるということ、そして批判をしないという態度もまた「政治的」であるということを力強く述べるこの文章があったからこそ、わたしは半ば安心してヒプマイを批判し、コンテンツを楽しんでこられたのだとも思う。

わたしの文章が巣矢の文章のように広まることはなくとも、どこかでまたヒプマイに惹かれている誰かのもとに届き、さらなる批評と批判を呼び、ヒプマイがより配慮されたコンテンツになる遠因となることを、一人のファンとして願ってやまない。

引用・参考文献

[i] 公式ホームページより。二〇二二年四月三十日最終閲覧(https://hypnosismic.com/about/)。

[ii]「【ビルボード】TWICE『#TWICE4』初週7万枚を売り上げてアルバム・セールス首位」二〇二二年三月二十一日更新、二〇二二年五月一日最終閲覧(https://news.yahoo.co.jp/articles/1745a3b3a8ed280e56fde835b9ab3947509d610d)。

[iii]「ヒプマイ、経済効果100億円超 『日本商品化権大賞』各部門賞発表でワンピース、DBなど」二〇二〇年一月二十三日更新、二〇二二年五月一日最終閲覧(https://www.oricon.co.jp/news/2153742/full/)。 

[iv] 現在は変更されているため、引用は「『ヒプノシスマイク』の「女尊男卑」設定は、ミソジニーを表現する免罪符にならない」二〇一八年八月三日更新、二〇二二年五月一日最終閲覧(https://wezz-y.com/archives/57096)による。

[v] 巣矢、二〇一八年。 

[vi] 高井くらら、二〇一八年「韻(ライム)で書き換えるビジョン 『ヒプノシスマイク』における言葉と暴力においての試論」『エクリヲ vol.9』、二七三―八三頁。

[vii] 巣矢も指摘しているように、作品中には「てめーら俺の前で『だって』とか『けど』、なんてカマ野郎みてえなセリフ吐いてんじゃねえよ」(「Drama track1」、『ヒプノシスマイク Buster Bros!!! Generation』、KING RECORDS、KICM-3331、二〇一七年)
「クソ女どもに尻尾ふらなきゃなんねぇとか虫唾が走るな」「カビの生えた話はそこらにいるクソ女の(規制音)にでもぶちこんどけ」(「Drama Track[Know your Enemy side B.B VS M.T.C.]」、『ヒプノシスマイク Buster Bros!!! VS MAD TRIGGER CREW』、KING RECORDS、KICA-3272、二〇一八年)といったセリフが見られる。

[viii] 潤がどのような性自認セクシュアリティを持つのか、作品内では言及されない。ただ、潤の服装や話し方はいわゆる女性的なものだが、声優は男性(三宅健太氏)が演じている。

[ix] 文末注ⅴを参照。「俺の前で『だって』とか『けど』なんてヌルい台詞吐いてンじゃねーよ!」に変更。EVIL LINE RECORDS・蟹江鉄史・百瀬祐一郎『ヒプノシスマイク—Division Rap Battle—side B.B&M.T.C 1』、講談社、二〇一九年。

[x] EVIL LINE RECORDS・鴉月ルイ・百瀬祐一郎『ヒプノシスマイク —Before The Battle—The Dirty Dawg  01』、講談社、二〇一九年。

[xi] ヒップホップのミソジニーホモフォビアに関しては、巣矢も指摘しているほか、長谷川町蔵・大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング、二〇一一年)でも言及されている。

[xii] Channelヒプノシスマイク「ヒプノシスマイク 『Femme Fatale』Music Video」二〇一一年十一月二十五日投稿、二〇二二年四月二〇日最終アクセス(https://www.youtube.com/watch?v=T1h-ykyfqFA)。

[xiii] 「流転は篠突く雨ですら流せない」「山雨来らんと欲して風楼に満つ」、『ヒプノシスマイク —Division Rap Battle—Official Guide Book』初回限定版CD、KING RECORDS、二〇二〇年。

[xiv]「女性管理職の平均割合、過去最高も8.9%にとどまる」、PR TIMES、二〇二一年八月十六日更新、二〇二二年四月二十九日最終閲覧(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000334.000043465.html)。

[xv] EVIL LINE RECORDS・城キイコ・百瀬祐一郎『ヒプノシスマイク —Division Rap Battle—side F.P&M  1』、一迅社、二〇一九年。

[xvi] 清水晶子、二〇二一年、「『同じ女性』ではないことの希望——フェミニズムとインターセクショナリティ」岩渕功一編著『多様性との対話 ダイバーシティ推進が見えなくするもの』青弓社、一四五―一六四頁。

[xvii] Channelヒプノシスマイク「ゲームアプリ『ヒプノシスマイク -Alternative Rap Battle-』OP曲『Survival of the Illest +』」二〇二一年六月十八日投稿、二〇二二年五月一日最終アクセス(https://www.youtube.com/watch?v=ShgdTo_cdC0)。

[xviii] 「キズアトがキズナとなる」『キズアトがキズナとなる』、KING RECORDS、KICA-3294、二〇二二年。

[xix] 同上。

(たぶんありふれた)呪いのはなし

長いこと、文章を書かないでいた。このブログもほったらかしだったし、修論も、こっそりつけている紙の日記も書いていない。制限字数にも満たないTwitterの呟きがせいぜいだった。

 

とくに理由があったわけでもない。強いていうなら秋からはじめたアルバイトをこのあいだ辞めて(半分以上クビになったようなものだ)、修論は提出できずふたたび休学し、まあいろいろと限界だったのかもしれない。この期間、なんだかずっと焦っていた。

 

焦っていた、というのがいちばん的確だ。わたしはもうすぐ26歳になるのだが、勝手に「この年齢ならこうなっていなくては」というのを持ち出して、ずっと焦っている。修士課程くらい出ていなくては、就職くらいしていなくては、恋人くらいいなくては、自分のセクシュアリティを理解していなくては。等々。

 

そんなに自分に呪いをかけなくてもいいよ、と自分でも思うし、そう言ってくれる人間も周囲にいるのだが(本当に足を向けて寝られません)、彼らにはありがとうと言いつつ、内心、でもあなたは修論も出してるし就職もしたことあるし恋人やパートナーもいるじゃないですか、とこうなってしまう。非常にまずいのだ(ちなみに、これは去年ひとに言われて自覚したのだが、わたしは「だれかとパートナーになりたい」という願望が強いらしい。別に恋愛でも友情でもその他でも構わないけれど、モノアモリー的関係とか、「親友」とかに弱い。さいきんは阿佐ヶ谷姉妹にすら「いいなあお互いがいて」と嫉妬している)。

 

阿佐ヶ谷姉妹への感情も含めて、それはわたし自身のやっかみだと100パーセント理解しているのだけど、どうしたらいいのか皆目検討がつかない。30代になったら楽になるみたいなことを時々聞くが、それまでこの苦しみは続くのだとしたら、そこまで生きのびる自信もあまりない。なんとかしてパートナーを見つけたりして、「こうなっていなくては」をクリアすればいいのかもしれないけれど、それは根本的な解決にはならない気がする。

 

たぶん、解けてしまえば簡単な呪いなのだろう。でもまだ解けない。明日には解けるかなあ、と思いながら、わたしは26歳になってゆく。

生きよ、深夜にラーメンを啜れ

最近暗いニュースばかりで、いよいようつがひどくなってきた。早朝覚醒はしなくなったが、このタイミングで生理までやってきて過眠がひどい。感染拡大は止まらず外に飲みにも行けないし、相変わらず論文執筆は進まない。

しかし悪いことばかり考えていても何にもならぬ。少しばかり生産的(!)なことをしようと考えて、というか単に空腹になったので、深夜にラーメンを作るのに最近はまり出した。大したラーメンではない、サッポロ一番の塩らーめんだ。

 

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マルちゃん正麺かと思っていたら違った。しかしまあどちらでもこだわりはない。


ラーメンは奥が深い、というが、わたしの作るラーメンはそんなものとはほど遠く、ほんとうにシンプルな素ラーメンだ。ネギも何も足さず、麺の上に乗っているのは付属の切りごまだけ。この切りごまがおいしい。ややもすれば単なる塩味になってしまうスープに、優しさと風味を与えてくれる。それをずるずる、外では出さないような大きな音をさせて啜る。

考えてみれば、安価で手頃なインスタントラーメンはいつも、少しだけ特別な食べ物だった。食べすぎれば体にあまり良くないせいか、家族はあまりわたしにインスタントラーメンを食べさせなかったように思う。ましてや深夜になど、考えるまでもないことだ。

しかし大人になった今、実家暮らしという制約はあるが、わたしは好きなだけラーメンを食べることができる。しかも野菜も何も乗せないで、思いっきり不健康に。そうそう、とわたしは思う。留学中、一人暮らしをしていた頃もこうしてたんだった。大きなどんぶりが手に入らなかったので、鍋から食べていたっけ。外国暮らしはとても大変だったけど、日本のともだちが送ってくれたラーメンを啜るひとときは、どこか安心して幸せだった。

こんなことを思いながらラーメンを啜るとき、なんとなく啜るという行為に一生懸命になってしまって、悲しいことや不安を少しだけ忘れられる。喉まで詰まった悲しみも、塩辛いスープで打ち消してしまえるような気がする。インスタントラーメン一杯を食べて一日を終えることができれば、人生オールオッケーという気さえする。

明日まで生きよう、と深夜に思う。今夜は死なないで。だって司法解剖をされて、胃からラーメンがたくさん出てきたら、ちょっと笑えるじゃないか。

むかし、短歌をはじめたばかりのころ、「アイドルの歌をバックに聴きながら生きているからラーメン啜る」という歌を詠んだ。今いるのはラーメン屋でもないし、アイドルの歌は聴こえてこないが、そこにあるのはいつもよりにぎやかな静寂だ。生きよ、深夜にラーメンを啜れ、そう格言のようにつぶやいて、少し愉快になる。

英詩とわたし1——ラングストン・ヒューズ「自死の書き置き」

注意:自死に関する内容があります。

 

眠れない夜、君のせいだよ、という、アニメ「キテレツ大百科」の歌がずっと頭を駆けめぐる、そんな真夜中である。ただしわたしの場合は、恋人とキスをしたからドキドキしているのではなくて、単に眠れないだけだ。どうせなら、もう少し今の自分にふさわしい歌詞を思い浮かべたい。できたら静けさに満ちた、短い詩を。

そこで思い出したのが、ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes)の“Suicide’s Note”だった。たった3行の、ごく短い詩である。ヒューズについては、(真夜中で目もしぱしぱするので)詳しくは書かないが、1902年生まれのアフリカ系アメリカ人の詩人で、ハーレム・ルネサンスという20年代の芸術運動をリードした、有名な詩人だ。

 

“Suicide’s Note”

The calm,

Cool face of the river

Asked me for a kiss.

 

自死の書き置き」

静かな、

冷たい川の水面に

キスしてくれと頼まれたので。(拙訳)

 

この作品、“Suicide's Note”を知ったのは大学の学部生のとき、英文学のゼミでのことだった。あるヒューズの詩を取り扱った際、教授が関連本としてヒューズの訳本をクラスに見せてくれた(訳本はかなり出ているが、どの本だったか忘れてしまった)。渡された本をぱらぱらとめくっていた時、ひときわ目を引いたのがこの詩だ。ひとつは、その短さのゆえに。もうひとつは、その直前、友人を自死で失っていたがゆえに。

わたしの友人は、ヒューズの歌ったように「川の水面に」キスして死んだのではなかったが、わたしが少なからず動揺したのは、あまりにヒューズの描く死の描写がうつくしかったからだろう。不謹慎ともされる自死をここまでうつくしく捉えてしまう感性と、その表現は、わたしにとって衝撃だった。

あまりに静かな、冷たい、繊細な死の表現。わたしは急いで本文をノートの隅にメモした。今思えば、それが、死んだ友人からの書き置きそのもののように感じたからかもしれない。彼女は、誰にも、何も残さなかったから。

さて、暗い話がしたいのではない。わたしは眠りたいのだ。この上鬱々としたいわけでも、これを読んでいるあなたを鬱々とさせたいわけでもない。ただ、ハムレットが言うように「死とは眠り」であり、両者が近いものであるなら、眠ろうとしているいま、わたしはほんの少しだけ死に近づくことになる。そのときにヒューズの詩を思い出す。静かな、冷たい水の面を、わたしは唇に感じるような気がする。

 

出典:https://www.poetryfoundation.org/poems/147906/suicide39s-note

 (2021/7/4最終アクセス)

https://www.poetryfoundation.org/poets/langston-hughes 

(2021/7/4最終アクセス)

早朝覚醒と書くこと

とうとうあきらめて布団から起き上がり、最小限部屋の電気をつける。一応トイレに行き、アトピーで痒い体に薬を擦り込み、台所で水を飲む。眠気はまだやってこない。

早朝覚醒だとは思いたくなかった。例えば寝る前に水を飲みすぎたからだとか、喉が乾いたからだとか、そんな理由で目が覚めたのだと思いたい。もしかしたら昨日から降り続く雨の音が神経に障ったのかもしれないし、体が痒かったからかも。

と、どんなに言い訳したところで、まだ眠くならない。きっとこれは早朝覚醒だから。

 

早朝覚醒は苦手だ。うつ病の症状なんて、どれも苦手といえば苦手なのだが、わたしに取ってはこれが一番堪える気がする。多分、そもそも眠れないことの次くらいに。

うつ病患者のほとんどが睡眠障害を訴えると言われているが、わたしはどちらかというと不眠より過眠の方で、一日12時間とか平気で寝てしまう。不眠になるのはうつが相当ひどいときくらいだ。だから、余計に入眠障害とか早朝覚醒がおそろしい。

しかし、だ。今日のわたしは少し違う。いつもなら延々と布団の中で朝が来るのを待つのだが、今のわたしにはブログがあるではないか。

薄暗い部屋の中でマックブックを開く。パアア、と効果音でも聞こえてくるような、眩しい光が画面から照射して、わたしのぼんやりとした顔を照らす。わたしの指はすでに動き始めて、Wordの画面を開いている。それがとても自然な行為であるかのように。

 

早朝覚醒は孤独な症状だ。朝が来てカラスがどこかで鳴いているのに、ちっとも心が動かないし、Twitterのタイムラインも止まっているし、流れてくるのは海外のアカウントくらい。白んでゆく空も疲れた目には痛々しく映る。まるで自分ひとりが新しい日の波に乗り損ねてしまったような気になる。

でも、考えてみれば、と、文字を打ち出しながら思う。書くことだって孤独なのだ。こんな早朝覚醒をしましたという文章を書いたところで、誰が読んでくれるのかもわからない。ネットの大きな大きな渦に飲み込まれて、なんの救いにもならないかも。それでもわたしが書いているのは、孤独で孤独を相殺しようとする試みなのかもしれない。

書くことは、ここにいるよ、と小声で言うような行為だ。朝早くに目が覚めてしまったひと、一晩中まんじりとも眠れなかったひと、似たような人間がここにいますよ。もしかしたら日中は家族の目があるから書きにくい、というひとも、似た人間がここにいます。

それはたぶんわたしが欲しかったことばなのだろう。

新しい日が来るのがうれしい、いつの日か、そんな明け方を迎えられたら。