より活発な批評のために——ファンによる『ヒプノシスマイク』試論

本稿は、文芸同人誌『夏のカノープス vol.1』(夏のカノープス編集部編、2022年)に掲載された「より活発な批評のために——ファンによる『ヒプノシスマイク』試論」(眞鍋せいら)を一部修正したものです。このたび、編集部の許諾を得て、執筆者本人により公開いたします。

 

(以下本文)

注意:本文中と文末脚注に引用として、女性やトランスジェンダーへの差別発言があります。また、作品のネタバレを含みます。

いつかは書かなければならないのだろうと思っていた。約一年半前から熱をあげている、『ヒプノシスマイク』についてである。ヒプノシスマイク(以下、ヒプマイ)とは、二〇一七年からCD、動画配信、ライブ、コミック、アニメ、舞台などのメディアで展開されている「様々な楽曲を声優が演じながらラップすることにより、音楽を軸に各キャラクターのストーリーが展開していく」「音楽原作キャラクターラッププロジェクト」[i]のことだ。二〇二二年四月現在での最新アルバム、「キズアトがキズナとなる」(二〇二二年三月十六日発売)は、Billboard Japanアルバム・セールス・チャート(二〇二二年三月十四日〜二〇日)によれば初動3日間で29,399枚を売り上げ、2位を獲得した(当週の売上は37,871枚にまで上った)[ii]。二〇一九年時点で「日本商品化権大賞」審査員特別賞を受賞し、経済効果は100億円を超えたという、人気のプロジェクトだ[iii]

かくいうわたしも「キズアトがキズナとなる」のCDを予約し、Apple Musicでもダウンロードしたひとりである。ヒプマイにはまったのは比較的最近だが、昨年二月の「ヒプノシスマイク—Division Rap Battle—6th LIVE 《2nd D.R.B》」も、それに続く「7th LIVE《SUMMIT OF DIVISIONS》」の配信も手に汗を握りながら見たし、今年の年始早々の3DCGライブにも行った。ちなみに一番応援しているのはシブヤ・ディビジョンなので、去年のセカンド・ディビジョン・ラップバトルでシブヤが優勝した時は本当に嬉しかった(ディビジョンとバトルに関しては後述する)。また二次創作が好きなこともあり、ほぼ毎日イラスト投稿サイトpixivでヒプマイ関連の作品を検索するといった日々が続いている。

ここまで好きなのを自覚しながら、わたしは大声で「ヒプマイが好きです」と言うのを躊躇わずにはいられない。また、好きなものは分析したり批評したりしたいという欲求をいつもなら抑えられないのだが、ヒプマイに関しては一年以上、まとまった文章にすることを避け続けてきた。なぜなら、しばしば指摘されているようなヒプマイの女性嫌悪や同性愛嫌悪、トランスジェンダー差別の表現にわたし自身少なからずダメージを受け、目を逸らそうとしてきたからだ。批判したいのに好き、でも差別的な面は見過ごせない、いっそ追うのをやめたほうがいいと思いつつ惹かれてしまう……そういった思いに引き裂かれ、なんとかこの思いを言語化したいと周囲にも話しつつ、できないでいた。今回、夏のカノープスの編集部に背中を押され、フェミニズム批評を用いながら、なんとかヒプマイについて語ろうとしはじめている。

なお、前述もしたが、本稿はシブヤ・ディビジョンのファンによるものということもあり、最後はシブヤのキャラクターに重きを置いた文章になる。そしてテクストとしてはCDのドラマトラックとコミカライズを用いたが、アニメやゲームなどカバーできなかった資料も数多い。その点を差し引いて読んでいただければと思う。

◆『ヒプノシスマイク』の「女尊男卑」設定とミソジニーホモフォビア

最初に、ヒプマイの設定をおさらいしておこう。物語の始まりは第三次世界大戦が終わり混乱した世界。なおも争いをやめない(男性の)権力者たちに対し、女性たちはクーデターを起こし、西暦を改め「H歴」の支配者となる。H歴では武力は根絶され、「争いは武力ではなく人の精神に干渉する特殊なマイク」=「ヒプノシスマイク」にとって代わる。ヒプノシスマイクは交感神経、副交感神経に作用することで、人にダメージを与えることができるというものだ。そこで、人々はラップという攻撃力の高い言葉を、ヒプノシスマイクを通じて操ることで優劣を決するようになる。

権力を握った「言の葉党」の女性たちは「中王区」という高い壁で囲まれたエリアに住んでおり、男性は中王区以外の「ディビジョン」という区画で暮らさざるをえない。各ディビジョンにはそれぞれ代表のMCグループがおり、彼らがバトルをして勝敗を決めることで、ディビジョンの領土が割り当てられる。男性は中王区に基本入ることはできず、また女性の10倍の税金を課せられている。

ちなみに、ヒプマイがプロジェクトとして発表された二〇一七年当時の公式サイトにおける説明には次のような文言があった(現在は変更)[iv]

野蛮な男性に変[ママ]わり、女性が覇権を握ることになる。中王区と呼ばれる、男性を完全排除した区画で政は行われるようになった。そこで新たな法が制定された。その名もH法案。人を殺傷するすべての武器の製造禁止、及び既存の武器の廃棄。しかし、それだけでは愚かな男性の争いは根絶されない。なので、争いは銃ではなく人の精神に干渉する特殊な【ヒプノシスマイク】にとって変わった。

このように、ヒプマイの世界は明確に、人間を「男性」と「女性」に分ける考え方、つまり性別二元論(ジェンダー・バイナリー・セオリー)に基づいている。その上で(現在削除された文言ではあるものの)男性たちは「野蛮」「愚かな」と表現され、H歴では社会システムとしても女性が優位であることが強調される。いわば女性中心主義の「女尊男卑」社会だ。そして、そのような社会のあり方に対し、ヒプマイの男性キャラクターたちは程度の差こそあれそれぞれ不満を抱いていて、ラップバトルを通じて「世界を変えよう」とする。中王区、ないし女性たちによっていわば仕組まれたバトルの場ではあるものの、それを自分たちの目的のために彼らは捉え直し、バトルに臨むのである。

と、以上がヒプマイのストーリーの基本的な枠組みだ。批判したい点はこの時点で二つある。男女二元論的なキャラクターの描き方、そして「女尊男卑」設定の意図の不明さだ。一つ目は後述するとして、ここでは「女尊男卑」という設定の不明さについて述べよう。

巣矢倫理子は、WEB記事「『ヒプノシスマイク』の『女尊男卑』設定は、ミソジニーを表現する免罪符にならない」の中で、Netflixの映画『軽い男じゃないのよ』に触れ、男女に期待されている社会的な役割を逆に(この場合は男性が性別を理由に仕事の案を却下されたり、「男性なのに」子供を持たないことに驚かれたりするように)描くことで、男性中心的で女性差別的な社会を批判的に描き出すという手法を紹介している。巣矢はその上で、ヒプマイの「女尊男卑」設定をこう批判する。[v]

一方、『ヒプノシスマイク』の社会で「女尊男卑」として挙げられている具体的な内容は、主に二つある。一つは男性が女性の10倍課税されること、もう一つは女性だけが集住して政治を行い、男性がそこから放逐されていることである。それ以外は特に説明がなく、例えば勤務医・正社員のキャラクターやその男性上司も出てくるし、職業の不自由などは描写されない。男性の医者に対して女性の看護師、というジェンダーステレオタイプな描写も登場するし、丁寧な言葉遣いをする女性の給仕係に対し、タメ口で応答する男性客、という構図も現実と変わらない。現在のジェンダーバイアスについて深く考えて反転させた内容であるとは思えない(巣矢 二〇一八)。

また、この点については、高井くららも「男性が差別されている世界だが(中略)参政権や税金が十倍であること以外にどのようにその差別が表出しているのか」と指摘する[vi]。高井は、執筆当時はヒプマイが発表された当初だったため、これから明かされる情報も多いだろうとしつつ、「不明な点や辻褄が合わない点」が数多くあるとしている(高井 二〇一八)。

正直、この点はわたしがヒプマイを知り始めた時にも抱いた感想だ。主要なキャラクターであるシンジュク・ディビジョン「麻天狼」のリーダー・神宮寺寂雷(じんぐうじ・じゃくらい)は総合病院勤務の医者で、天才医と目されている。看護師(女性として描かれることが多い)からの信頼も厚い。ちなみに彼をライバルと見なす医師も男性だ。寂雷はナゴヤ・ディビジョン「Bad Ass Temple」の天国獄(あまぐに・ひとや)と同級生だったのだが、獄も元医師志望の弁護士で、彼の事務所の受付スタッフは女性である。彼らが医師や弁護士の資格を取得したのはH歴以前の男性優位の社会でのことだったという点を考慮する必要はあるかもしれないが、H歴3年においてもジェンダーギャップ指数ランキングは低いような気がしてならない。

そして、主に初期のヒプマイには、この曖昧な「女尊男卑」という設定の中で直接的なミソジニー発言やトランスジェンダーへの差別発言が見られる[vii]。例えば、主要な登場人物であるイケブクロ・ディビジョンの山田二郎の相談相手として、安僧祇潤(あそうぎ・うるみ)というクィアに見えるキャラクター[viii]を登場させておきながら、彼の兄であり本作の主人公的な立ち位置を担う山田一郎にはトランスジェンダー女性への差別発言をさせる(このセリフはコミカライズ版では差別的でないものに変更されている[ix])。また、言の葉党によるクーデターが発表された直後には、女性へのヘイトスピーチヘイトクライムの描写もある(それをのちのシブヤ・ディビジョンの飴村乱数(あめむら・らむだ)が助けるという筋書きになっている[x])。しかし、それらの差別に対して、男性キャラクターはおろか中王区の女性キャラクターたちも、またヒプマイの公式見解としても、「差別は許されない」とは言ってくれない。巣矢が指摘するように、これらの差別は「女尊男卑の世界での出来事だから」という「免罪符」のもとに、いっそうグロテスクな面をただ露悪的に曝け出している。むしろ、男性優位であり女性差別的な風潮の強く残る「西暦」において、その女性差別に加担していると言われても仕方がないのではないだろうか。

◆中王区のフェミニズムとバイナリーな世界観への批判

巣矢はヒプマイを、「かっこいい男性キャラが、ヒップホップというカウンターカルチャーを背負って社会に反旗を翻す様子を、『女性向けコンテンツとして』描きたい」という作品であるとし、「それ自体は魅力的な試み」であると述べる。ヒップホップがシスヘテロ男性を中心に担われてきた文化であったことを考えれば[xi]、確かにヒプマイは多くの女性ファンを獲得し、ヒップホップの間口を広げたとも言えるのだろう。わたしも、元々ヒップホップとはまるで縁がなかった人間だが、ヒプマイに楽曲を提供している有名ラッパーを入り口に、少しずつ興味を持ち始めている。

女性のラッパーが活躍していることもヒプマイを通じて知った。中王区の曲「Femme Fatale」の歌詞は女性ラッパーReolによって提供され、Youtubeでは500万回を超えて再生されるなど、ヒプマイの曲の中でも人気の楽曲だ。Youtubeのコメント欄でも彼女らの「強さ」に好意的であったり、女性としてエンパワメントされた、というような書き込みが多い[xii]。わたし自身、力強く挑発的な歌詞とリズムには聴くたびに惹きつけられる。

先ほど、ヒプマイの「女尊男卑」の世界観が詳細に練られたものとは言えないと述べた。しかし一方で、H歴以前の西暦における女性差別の様相や、政権に就く以前の中王区のフェミニズム描写はかなり切実でリアルだ。その例が、中王区のトップである東方天乙統女(とうほうてん・おとめ)と、ナンバーツーである勘解由小路無花果(かでのこうじ・いちじく)の過去を描いたエピソードだ。詳細を見ていこう(なお、以下は公式ガイドブックの初回限定CDに収録された中王区Drama Track「流転は篠突く雨ですら流せない」「山雨来らんと欲して風楼に満つ」のネタバレを多分に含むので注意してほしい)[xiii]

もともと、テレビ局でアナウンサー兼記者であった無花果は、汚職や不正が蔓延る政治に疑問を持ち、権力を疑問視する取材をしていた。しかし同業の記者にさえ「女がそんな事件嗅ぎ回ってんじゃねえ」と差別発言とともに手を引くように言われ、しまいには権力側に妹を誘拐・殺害されてしまう。殺害した政治家側の人間もまた「女のくせに」という発言をしており、H歴以前の西暦では政治的腐敗だけでなくフェミサイド(女性を標的とした殺人)も頻繁だったと考えることができる。

その無花果に救いの手を差し伸べるのが東方天乙統女、という構図なのだが、財閥の一族に生まれた乙統女もまた、女性差別に苦しめられてきた。家父長的な父親と、女性差別や格差はおろか、戦争状態にある世界情勢に対しても「男性に任せておけばよい」と無関心な母親。成長した乙統女は、思わず母親に対して「管理職に就く女性の割合は、9パーセントに届きません。そして何より、この国のトップにいまだ女性が就いた事がないというのが、男性優位が根強く残っている証拠です」「ご自分が生きる国のことに、無関心でどうするんですか」と詰め寄る。ちなみに二〇二一年時点、日本における女性の管理職の割合は8.9パーセント[xiv]。乙統女の指摘する状況そのままにある西暦を生きるわれわれにとって、乙統女の訴えは胸を打つ(そして結局、彼女の訴えは「無関心でも世界は回るものですよ」と一蹴されてしまう)。

同時に乙統女は、父親による、性差別と結託した資本主義的な思考にも苦しめられる。乙統女の意向と関係なく乙統女の結婚を決めた父親は、反発する彼女に対し、「決める権利というものは、自立している者の特権だ。私の金で生きているお前に、その権利はない」と言い放ち、出て行こうとする乙統女にさらに「お前が生まれてから今日までかかった金を全て返してもらおう」「(自分で働くなどと)できもしないことを言うな」と乙統女に暴力をふるう。

しかし、乙統女の結婚相手となる飛鳥帝(あすか・みかど)は、乙統女の父親とは違い進歩的な男性であった。女性の政治参画を支持し、「いつか一緒に、この国の政ができるといいですね」と話す帝は、乙統女による女性のみの政党「言の葉党」の設立にも携わる。しかし段々と、帝は乙統女の父親と結託して不正に加担するようになり、最後には「女のくせに」と乙統女に差別発言を放ってしまう。

家父長制を体現したような乙統女の父とは違い、進歩的な考えをもつ帝すらも内面化していた女性差別。乙統女、そして無花果の直面してきた状況は「過去のもの」などではなく、まさに今・ここ、現代の日本において暴力的に、かつカジュアルに日々行われているものだ。これらのエピソードを踏まえれば、中王区的なフェミニズムのヴィジョン(女性だけが暮らすことのできるエリアがあり、政治に参画できる)や「Femme Fatale」の「最後に笑うのは乙女」という歌詞が、わたしたちにいっそう魅力的にアピールするのも無理はない。

しかし、やはり中王区のフェミニズムは批判されなければならない。繰り返しになるが、それは男女二元論であり、本質主義に基づいている。そこではXジェンダージェンダーフルイド、トランスジェンダーなどの人々の存在は透明化されている。のみならず、「男は野蛮で争うようにできている」という乙統女の言葉は差別的だ(不思議なことに、ヒプマイは女性の性役割の固定化には先述のように比較的懐疑的な見解も見せるのに、男性の役割の固定化に対しては無頓着だ。例えば、先述の神宮寺寂雷は「麻天狼」を結成する際、伊弉冉一二三(いざなみ・ひふみ)と観音坂独歩(かんのんざか・どっぽ)を「君らも男ならラップできるだろう?」と言って勧誘する[xv])。

同様に、乙統女が無花果に投げかける「(男性に虐げられた過去が)女性ならありますよね」という発言にも注意をしなければならない。それは性差別の被害者としての共通の経験を想起させ、当時の無花果にとっては確かにエンパワメントとして作用したかもしれない。しかし、それは同時に、フェミニズムが直面してきたはずの「『女性』とは誰を指すのか?」という問題を無視してしまう。清水晶子は、トランスジェンダー女性への差別とインターセクショナリティに言及しながら、こう述べる。

 あの女性と、この女性とは、必ずしも同じ女性ではない、ということ。しばしば「女性なら誰でもわかる/経験したことがある」などと言及される経験は、しかし、必ずしもあらゆる女性にとっての経験ではない、ということ。きわめて当たり前のことだが、女性がみな同じ一つの何かを共有しているわけではない、ということ。

フェミニズムは何度も何度も繰り返しこの問題に突き当たり、そこにつまづき、そしてそのことを通じてより豊かなものになってきた。フェミニズムが目指すのは、第一には、女性の権利と尊厳とが男性のそれと同等に尊重される社会の実現である、といえるだろう。しかし、そのときの〈女性〉とはどの女性なのか、誰を指すのか。そのように問われることを通じて、フェミニズムは、自らが想定してきた〈女性〉とは異なる出自や経歴、感情や技能をもつ〈女性〉がありうること、異なる身体の形状や使い方をし、異なるかたちで社会との経験を結ぶ〈女性〉がありうること、すなわち、女性の生の経験と可能性はフェミニズム自身が想定してきたものよりもはるかに多彩であることを学んできたのである(清水、2021)(傍点は清水による)[xvi]

これに倣うなら、中王区の言うフェミニズムに対して、このような問いを立てることが可能なはずだ。言の葉党に入党し、中王区に居住できるのは、シス女性(生まれた時に割り当てられた性別と自認する性別が同じである女性)だけなのか?戸籍上(戸籍というものがH歴にまだあればだが)の女性だけなのか?国籍が外国であったり、一定の所得がなかったり、障害があったり、「ヒプノシスマイク」で流暢に言葉を操ることができない女性はどうなのか?中王区のフェミニズム、ひいてはヒプマイで描かれるバイナリーな男女の世界には、現時点ではこれらの問いが設定されていない。「同じ女性/男性だからわかる」という言説は、ナイーヴであるだけでなく、「同じ」ではない他者を想定しない、排他的な言説だ。

しかし同時に、期待もある。中王区のホープであると同時に、上流階級出身の乙統女とは異なり過酷な生活環境で育った碧棺合歓(あおひつぎ・ねむ)や、言の葉党員でありながら無花果と対立し暗躍する邪答院仄仄(けいとういん・ほのぼの)は、中王区やヒプマイにおける女性たちが決して一枚岩でないことを代表するキャラクターだ。特に合歓は、そもそも兄・碧棺左馬刻(あおひつぎ・さまとき)の暴力的な言動に懐疑的であったところをヒプノシスマイクによる洗脳を受け、言の葉党に入党したという経緯があるため、洗脳が解けかけている今後、どのように中王区、ならびに家父長的な兄と対峙していくのかが注目される。

言い換えるなら、いま、ヒプマイに必要なキャラクター像の一つは、中王区のイデオロギーに収斂されない、より多面的な視野をもったフェミニストではないだろうか。例えば、中王区の「壁の外」で生活し、権力に抗する主要男性キャラクターたちと連帯していく女性キャラクターだ。

巣矢は、二〇一八年の記事で、ヒプマイの女性たちは「敵」「モブ」「敵のモブ」の三種類としてしか登場しないとしている。巣矢の記事執筆時から比べれば、その後より多くの女性キャラクターが登場したが、基本的に彼女たちは男性キャラクターから敵意を向けられるか、意に介されないかどちらかだ。そしてそのような種類の登場人物にしか、女性を主とするヒプマイのファンは自分を重ね合わせることができない。その様相を、巣矢は「悲しい立場」と呼んだ。

しかし求められているのは、新たな女性キャラクター像だけではない。彼女を敵としてしか見ないのではなく、「仲間」として認識してくれる男性キャラクターでもある。言うなれば、中王区の「壁の外」の女性の存在を認識させてくれる視線の存在だ。そしてその希望を、わたしはシブヤ・ディビジョンのリーダー、飴村乱数というキャラクターに見出しているのだが、それは次の項目で述べよう。

◆飴村乱数に希望を見る——「壁の外」の女性たちへの呼びかけ

シブヤ・ディビジョン代表(チーム名は「Fling Posse」)は、飴村乱数(あめむら・らむだ)、夢野幻太郎(ゆめの・げんたろう)、有栖川帝統(ありすがわ・だいす)の三人からなるチームだ。第一回のラップバトルでは初戦でシンジュク代表「麻天狼」に敗れたものの、昨年第二回のラップバトルでは初戦・決勝を勝ち抜き、優勝した。彼らについて書こうとすると、どうも動揺して落ち着いた記述ができないのだが、今回はできるだけ順を追ってその魅力を語ってみようと思う。

彼らの魅力の一端は、ホモソーシャルな風潮が強いヒプマイの世界において、比較的とはいえそのような性格から距離をとっている点だ。リーダーである飴村乱数は「非常に女性にモテるが特定の相手は作らない」というキャラクターである。個人的に言えば、ヒプマイを知った当初はこの設定が苦手だった。いわゆる「黄色い声」で乱数を応援する女性たちの描写はステレオタイプ的で、見ていて痛々しいように感じられたし、そもそも異性愛を批判なく描いているようにも思えた。

ところが、楽曲を聞いていくにつれて、乱数と女性の関係は必ずしも異性愛的な「モテる(=恋愛や性愛対象である)」といった関係でないのではないかと思うようになった。例えば、乱数は「Hoodstar+」という曲で、「惚れた腫れたはプレタポルテ/いやいや僕はオートクチュールです」と歌う。これはいささか飛躍して言えば、彼は「惚れた腫れた」という「既成の」異性愛的な関係以外を見据えている、ということにならないだろうか。

彼が「オートクチュール」と歌う関係は、第一にはストーリーを追うごとに深まる幻太郎と帝統との三人の関係だろう。と同時に、「シブヤ」に暮らす人々との仲間意識ではないかとも思われる。楽曲における乱数やFling Posseのパートでは、女性たちを主としたファンへの呼びかけが多い。「Survival of the Illest+」では、Fling Posseのパートには「Ladies bringin' party over here」「Ladies takin' party over there」のコールが入る[xvii]。また最新の「キズアトがキズナとなる」では、乱数は「君にも響くといいな/We areシブヤ/ヴィクトリーラン」「一緒に歩こうよ」と歌う[xviii]

そして、「キズアトがキズナとなる」と同時に発表された、各ディビジョンのリーダーによる楽曲「UNITED EMCEEZ-ENTER THE HEXAGON」での乱数のパートは一層印象的だった[xix]。ヒプマイの物語を追う上での最大の危惧は、男性キャラクターたちが「対中王区」として結束していく中で、女性キャラクターへの敵意やミソジニーエスカレートさせるのではないかという点だ。そしてこの曲こそ、今までお互いに敵対していた男性キャラクターたちの団結を象徴する曲だった。しかしその中で、乱数のパートの歌詞は「見せてよGirls gone wild/ブレーキなんてもう無い/幕開けるNew Era/一緒に作り上げてこうよYou and I」というものだった。

これこそ、中王区の「壁の外」にも女性たちがいることを意識させてくれる一節では無いだろうか。彼の歌う「Girls」は共に中王区に向かって反抗してくれると同時に、未来を「一緒に作り上げて」いく存在なのだ。正直、巣矢の言うように「敵」「モブ」「モブの敵」にしか自身を重ね合わせることができなかった一ファンの女性としては、ようやく報われた気持ちがした。彼の想定する「オートクチュール」な関係は、Fling Posseの男性キャラクター三人という、ややもすればホモソーシャルに終わる狭義の仲間だけではなく、つねにシブヤのファンや中王区に同調しない女性たちを含んでいるのである。

◆おわりに

以上、人気コンテンツ『ヒプノシスマイク』について、フェミニズムを援用しながら批評を試みてきた。実は本稿の当初の目的の一つは、ヒプマイに惹かれてやまないわたし自身と向き合うことだった。フェミニストを自認するわたしが、どうして問題も多いヒプマイというジャンルを好きなのか。この先どのようにヒプマイと付き合っていったらいいのか。その答えの片鱗を探すことだった。

正直、目的が達成できたとは思わない。批評を試みるので精一杯で、自身がなぜこのコンテンツを好きなのか、充分に言語化できた気はしない。それでも痛感したのは、さらに批評が必要だということだ。

本稿を執筆するきっかけの一つともなり、ヒプマイというコンテンツを理解しようとする上で非常に大きな影響を受けたのが、何度も引用している巣矢倫理子の文章だ。巣矢は、コンテンツを批判されると楽しんでいる気持ちに水を差された気持ちになる、といったコメントに対して、こう返す。

ヒプノシスマイク』のジェンダーについて一切問題ないと考える人や議論を避ける人を「悪」だとは言わない。作品に救われること自体は決して「間違い」ではない。ただ、「議論する」ことも「議論を無視する」ことも、それぞれ一つの政治的立場なのだという認識は必要だ。

ここでいう政治とは、狭義の政治――例えば、ニュースサイトの「政治」カテゴリで語られている話題――ではなく、広義の政治――人間集団における意思決定のための全ての営み――である(巣矢、2018)。

ヒプマイを知りはじめて魅力に取り憑かれるとともに、そのホモソーシャルな雰囲気に疑問を感じていたころ、ネット上で出会ったのがこの文章だった。コンテンツを「推す」と言うのは、無批判に楽しむことのみを指すのではない。批判をするという向き合い方もあるということ、そして批判をしないという態度もまた「政治的」であるということを力強く述べるこの文章があったからこそ、わたしは半ば安心してヒプマイを批判し、コンテンツを楽しんでこられたのだとも思う。

わたしの文章が巣矢の文章のように広まることはなくとも、どこかでまたヒプマイに惹かれている誰かのもとに届き、さらなる批評と批判を呼び、ヒプマイがより配慮されたコンテンツになる遠因となることを、一人のファンとして願ってやまない。

引用・参考文献

[i] 公式ホームページより。二〇二二年四月三十日最終閲覧(https://hypnosismic.com/about/)。

[ii]「【ビルボード】TWICE『#TWICE4』初週7万枚を売り上げてアルバム・セールス首位」二〇二二年三月二十一日更新、二〇二二年五月一日最終閲覧(https://news.yahoo.co.jp/articles/1745a3b3a8ed280e56fde835b9ab3947509d610d)。

[iii]「ヒプマイ、経済効果100億円超 『日本商品化権大賞』各部門賞発表でワンピース、DBなど」二〇二〇年一月二十三日更新、二〇二二年五月一日最終閲覧(https://www.oricon.co.jp/news/2153742/full/)。 

[iv] 現在は変更されているため、引用は「『ヒプノシスマイク』の「女尊男卑」設定は、ミソジニーを表現する免罪符にならない」二〇一八年八月三日更新、二〇二二年五月一日最終閲覧(https://wezz-y.com/archives/57096)による。

[v] 巣矢、二〇一八年。 

[vi] 高井くらら、二〇一八年「韻(ライム)で書き換えるビジョン 『ヒプノシスマイク』における言葉と暴力においての試論」『エクリヲ vol.9』、二七三―八三頁。

[vii] 巣矢も指摘しているように、作品中には「てめーら俺の前で『だって』とか『けど』、なんてカマ野郎みてえなセリフ吐いてんじゃねえよ」(「Drama track1」、『ヒプノシスマイク Buster Bros!!! Generation』、KING RECORDS、KICM-3331、二〇一七年)
「クソ女どもに尻尾ふらなきゃなんねぇとか虫唾が走るな」「カビの生えた話はそこらにいるクソ女の(規制音)にでもぶちこんどけ」(「Drama Track[Know your Enemy side B.B VS M.T.C.]」、『ヒプノシスマイク Buster Bros!!! VS MAD TRIGGER CREW』、KING RECORDS、KICA-3272、二〇一八年)といったセリフが見られる。

[viii] 潤がどのような性自認セクシュアリティを持つのか、作品内では言及されない。ただ、潤の服装や話し方はいわゆる女性的なものだが、声優は男性(三宅健太氏)が演じている。

[ix] 文末注ⅴを参照。「俺の前で『だって』とか『けど』なんてヌルい台詞吐いてンじゃねーよ!」に変更。EVIL LINE RECORDS・蟹江鉄史・百瀬祐一郎『ヒプノシスマイク—Division Rap Battle—side B.B&M.T.C 1』、講談社、二〇一九年。

[x] EVIL LINE RECORDS・鴉月ルイ・百瀬祐一郎『ヒプノシスマイク —Before The Battle—The Dirty Dawg  01』、講談社、二〇一九年。

[xi] ヒップホップのミソジニーホモフォビアに関しては、巣矢も指摘しているほか、長谷川町蔵・大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング、二〇一一年)でも言及されている。

[xii] Channelヒプノシスマイク「ヒプノシスマイク 『Femme Fatale』Music Video」二〇一一年十一月二十五日投稿、二〇二二年四月二〇日最終アクセス(https://www.youtube.com/watch?v=T1h-ykyfqFA)。

[xiii] 「流転は篠突く雨ですら流せない」「山雨来らんと欲して風楼に満つ」、『ヒプノシスマイク —Division Rap Battle—Official Guide Book』初回限定版CD、KING RECORDS、二〇二〇年。

[xiv]「女性管理職の平均割合、過去最高も8.9%にとどまる」、PR TIMES、二〇二一年八月十六日更新、二〇二二年四月二十九日最終閲覧(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000334.000043465.html)。

[xv] EVIL LINE RECORDS・城キイコ・百瀬祐一郎『ヒプノシスマイク —Division Rap Battle—side F.P&M  1』、一迅社、二〇一九年。

[xvi] 清水晶子、二〇二一年、「『同じ女性』ではないことの希望——フェミニズムとインターセクショナリティ」岩渕功一編著『多様性との対話 ダイバーシティ推進が見えなくするもの』青弓社、一四五―一六四頁。

[xvii] Channelヒプノシスマイク「ゲームアプリ『ヒプノシスマイク -Alternative Rap Battle-』OP曲『Survival of the Illest +』」二〇二一年六月十八日投稿、二〇二二年五月一日最終アクセス(https://www.youtube.com/watch?v=ShgdTo_cdC0)。

[xviii] 「キズアトがキズナとなる」『キズアトがキズナとなる』、KING RECORDS、KICA-3294、二〇二二年。

[xix] 同上。